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マルセロ・ビエルサ(Marcelo Bielsa)は、世界のサッカー界では著名なアルゼンチン人監督で、あのペップ・グアルディオラやマウリシオ・ポチェティーノ(彼は子供のころにビエルサにスカウトされ、プロデビューした時もビエルサが監督だった)、ディエゴ・シメオネなど、世界でもトップクラスの監督からも、その精緻なサッカー哲学で名将として尊敬をあつめる存在で、実際グアルディオラはアルゼンチンのビエルサの自宅に訪問して師事するなど愛弟子ともいえるような存在である。そんなビエルサは、2020年現在、イングランド プレミアリーグのリーズ・ユナイテッドの監督をしている。

一方で、El Loco (エル・ロコ):狂人 という異名をもつ監督でもあり、その選手を極限まで追い込む独特のトレーニングや徹底した対戦相手分析(やりすぎて、リーズにやってきた初年度にフットボールリーグから罰金を科せられたこともある)、就任2日で監督を辞任するなど、独特なパーソナリティでも知られている。

ビエルサ リーズ関連ニュース

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元々はアルゼンチンのクラブ、ニューウェルズ・オールドボーイズの監督時代にその名を知られるようになった。その後、さまざまなクラブを渡り歩くが、ラ・リーガのアスレティック・ビルバオ、フランス リーグ1のマルセイユ、リールなどの各リーグで中堅から上位のクラブの監督を歴任している。

今回は狂人として、また天才として、世界的な名監督たちに強い影響を与えてきたマルセロ・ビエルサの経歴と戦術、日本とのかかわりなどに関して、イングランドサッカーを専門に幅広く、深いコラムを展開しているフットボール プレミアがテレビ、新聞、雑誌、Webなど様々なメディアで報じられた情報と特に現地イングランドの情報を加味していきながら紹介していきたい。

逸話にあふれたビエルサ伝説

少なからず世界のサッカーに触れている人は、ビエルサの名前は、その突拍子もない逸話とともに聞いたことがある人が多いだろう。チームのサポーターを手りゅう弾で脅かした、アルゼンチン代表を率いた2002年のワールドカップの時に相手チームの分析用に2,000本のビデオテープをもってきた、などの話を聞いたことがあるかもしれない。

これらの逸話は、実際にビエルサの指導を受けた選手によると事実でないらしいが、世界でも特異なキャラクターをもった監督であるマルセロ・ビエルサは、実話でも驚くような逸話にあふれている。

朝の2時にスカウト

後年、トッテナム・ホットスパーの監督として名を上げることになるマウリシオ・ポチェティーノもビエルサに見いだされた選手の一人である。ビエルサが彼をスカウトしたのは12歳の時だったが、スカウトに訪れた時間はなんと夜の2時だったという。その時、当然ポチェティーノは寝ていたが、ビエルサはポチェティーノの母親にこういったという。「心配いりません。彼と話す必要はありません。ただ彼の足だけ見られれば大丈夫です。」

どこでも分析

アルゼンチンのニューウェルズ・オールドボーイズの監督をしていた時、選手の結婚式に参加していたが、同席していた他の選手を結婚式がおこなわれていたホテルの一室に連れ込み、次の対戦相手の前回の試合のビデオをみせていたという。

木上での指導

南米のクラブで実際にビエルサに指導を受けた選手の言。「ある日、トレーニンググラウンドにいったんだけど、ビエルサがどこにも見当たらなかったんだ。だけど、彼の叫び声は聞こえるんだよ。すると、誰かが突然ビエルサを見つけたんだけど、彼は木の上にのぼってたんだ。そこが僕らのトレーニングが一番見やすいってね。」

4時間の記者会見

2002年日韓ワールドカップのグループステージ敗退後、退任必至と思われていたが、後述するように、大方の予想を覆し、続投が決定したのだが、その発表をした会見でメディアと激論を交わすことになり、その会見が4時間近くに及んだという。

全裸でお説教

チリ代表監督時代、試合負けると全裸になってロッカールームを歩き回り、30分近くそのままの恰好で選手に説教をしていたという。

2日で辞めた

セリエAの強豪ラツィオへの就任が決まったビエルサだったが、クラブと喧嘩してたった2日で辞任することになった。

スパイゲート事件

リーズ・ユナイテッド就任初年度、禁止されていた試合直前での相手チームの練習グラウンドでの敵情視察を行い、フットボールリーグから罰金が科された。

フェアプレイ騒動

リーズがまだ2部にいて、プレミアリーグへの昇格争いをしていた重要な試合の時、相手方のアストン・ビラの選手がゴール前で負傷して転倒していたが、リーズの選手は試合を止めることなく、そのままゴールを決めた。これをみたビエルサが試合再開時に、選手に対し「守備をするな」と指示、結果アストン・ビラに1点を献上することになった。プレミアへの昇格を争う重要な試合であったにもかかわらず、自らのフェアプレイ精神に忠実でありつづけた。結果、リーズはこの年のプレミアへの昇格を逃している。

徹底した対戦相手分析や選手への高い負荷を強いるトレーニング手法など、冷徹なイメージをもたれがちな(実際そういう面が強いのだが、)マルセロ・ビエルサは、フェアプレイの話や、裸で説教した話、それ以外でも2002年日韓ワールドカップの時、グループリーグで敗退した時に涙して選手に詫びるなど人間味あふれる逸話も数多く持つ。このような個性の塊のようなビエルサはどのようなキャリアを歩んできているのだろうか?

El Loco誕生:マルセロ・ビエルサの経歴

ビエルサは、アルゼンチンのサンタフェ州のロザリオで、政治家や弁護士、外交官などを輩出している上流階級の子として生まれた。実際彼の兄弟は、法律や政治の世界で生きている。

一方で、ビエルサは、子供のころからサッカー研究に没頭していたようで、毎日、母親に「指示」して、あちこち回ってもらってスポーツ新聞や雑誌を集めてもらっていた。

ニューウェルズ・オールドボーイズで選手としてデビューしたが、すぐに選手としての限界を感じ、25歳で選手を引退、コーチへ転身した。ブエノスアイレス大学のコーチを経験したのち、ニューウェルズ・オールドボーイズのユースチームのコーチに就任する。ここで今日までに至る彼の選手発掘の科学捜査的アプローチが形成されていく。

元々アルゼンチンでは、サッカークラブが次世代のリオネル・メッシ、ガブリエル・バティストゥータ、ディエゴ・マラドーナを求めて、スラムや公園など、あらゆるところでスカウト活動をしているが、ビエルサはより組織化されたやり方で、国を70の領域に分け、気になる選手が現れた場合は、どこであろうと、何時であろうと見に行っていたという。

その後、1990年にはニューウェルズ・オールドボーイズのトップチームの監督となり、初年度にプリメーラ・ディビシオンを制覇、決勝でサンパウロに敗れはしたが1992年にはコパ・リベルタドーレスで決勝に進むなどの成果を上げた。その後、中南米のクラブの監督を歴任した時、1998年、アルゼンチン代表監督に就任した。

アルゼンチン代表監督時代のビエルサ

ビエルサはアヤックスサッカーの信奉者として知られている。アルゼンチン代表ではアヤックスの代名詞である3-4-3フォーメーションを発展させ、後日ビエルサの代名詞ともなる3-3-1-3フォーメーションを駆使して戦った。アヤックス風の洗練されたパスワークと同時に、コンパクトな陣形とマンマークの高強度の守備を組み合わせた戦術で戦い、当時のアルゼンチン代表のサッカーの2大潮流である、セサル・ルイス・メノッティの攻撃精神とカルロス・ビラルドの緻密な守備が融合した独特のビエルサスタイルを確立していく。

アルゼンチン代表監督時代のビエルサ

その当時は、ガブリエル・バティストゥータやエルナン・クレスポ、クラウディオ・ロペス、フアン・セバスティアン・ベロン、パブロ・アイマール、アリエル・オルテガ、ディエゴ・シメオネ、ロベルト・アジャラなど世界最高レベルの選手を攻撃にも守備にもそろえており、2002年日韓ワールドカップでは優勝候補の筆頭の1つであったが、ミスジャッジにもみえるPKの判定や思いもよらないFKが入ってしまうなどの運にも見放されて、グループリーグ敗退となった。

当然退任が避けがたい状況で本人も辞任の意向を示していたといわれているが、周囲の説得もあり最終的には留任した。2004年にはマスチェラーノやテベスなど後に世界的スーパースターにある選手が所属するU-23アルゼンチン代表を率いてアテネオリンピックで金メダルをとったが、本人の希望でその直後に退任となった。

チリ代表監督時代のビエルサ

2007年からは、チリ代表監督に就任し、すぐに成果を上げた。元々受け身のサッカーを続けてきたといわれるチリ代表に、相手が誰であっても基本形を崩さず、攻め続ける攻撃サッカーを植え付け、結果、2010年南アフリカワールドカップに3大会ぶりの出場を果たすことになる。それも南米予選ではブラジルに次ぐ2位という好成績での通過であった。本大会でもチリ代表は、注目を集めるチームの一つとなり、62年大会以降白星のなかったチリ代表を16強に導いた。ビエルサに対する評価は高かったが、大会後、自らを招聘したチリサッカー協会の会長が退任したタイミングで、みずからも辞任することになる。

アスレティック・ビルバオ監督時代のビエルサ

チリ代表の退任は、2011年2月であったが、その年のうちに、スペイン、リーガ・エスパニョーラで、クラブサッカーへの復帰を果たすことにある。アスレティック・ビルバオでの監督就任である。同時期にビエルサには、強豪のインテルや後述する日本代表からも監督就任の依頼があったが、そのような中、リーガの中堅クラブのビルバオをビエルサは次のキャリアとして選ぶことになる。ビルバオは選手を地元のバスク人のみで構成するバスク純血主義を掲げていることで知られているが、結果、選手のチームに対する献身性や忠誠心は強い。そんなビルバオの特徴がビエルサの求める豊富な運動量と献身性にマッチしたからであろうか。

ビルバオでも、ビエルサのフォーメーションのベースは、3-4-3であった。それは彼が信奉していたアヤックスモデルとは少し異なる豊富な運動量をベースにしたフォーメーションである。就任当初こそ勝ち星に恵まれなかったが、彼の戦術が浸透していくにつれて、チームのパフォーマンスも向上していき、一時は公式戦7試合負けなしとなるなど、次第に結果がでるようになっていった。カップ戦でも好調を維持し、コパ・デル・レイやUEFAヨーロッパリーグの2つのカップ戦で決勝に進む快挙を成し遂げた。両方とも決勝で敗れる結果にはなったが、クラブ史上初の2つのカップ戦での決勝進出という結果をうけ、クラブはビエルサとの契約を2013年まで延長することになった。

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その一方で、後述するように選手に大きな負担を強いるビエルササッカーの負の側面も顕在化していき、シーズン後半はチームの疲労やけが人の増加に苦しむことになり、リーグの順位は伸び悩み、目標としていたチャンピオンズリーグ出場圏内からは大きく外れた10位でシーズンを終えることになった。その後、これもビエルサの代名詞ともいえるクラブとの関係悪化によって、13年契約満了で退任することになる。

マルセイユ監督時代のビエルサ

アスレティック・ビルバオ退任からおおよそ1年。次の舞台はフランスのオリンピック・マルセイユであった。マルセイユはリーグでは7回の優勝経験を誇るいわゆる古豪と呼ばれるチームである。ビエルサ就任直前のシーズンは6位にとどまっており、チームも停滞していた時期であったが、ビエルサはぶれることなく、自らの特徴であるボール支配率やシュート数を上げるべく、また、代名詞である3-3-1-3のフォーメーションをチームに浸透させるべく、プレシーズンからハードなトレーニングを行った。今までとは異なるスタイルに当初は戸惑っていたマルセイユの選手たちだったが、ビエルサ自身もチームに浸透していた4-2-3-1のフォーメーションも柔軟に取り入れるようになってから次第に結果がでるようになり、クリスマスの時期には首位になった。ところがハードトレーニングの副作用か、その後息切れしてしまい、チームは調子を落とし4位に終わっている。結局マルセイユでの監督生活も短命でおわり、2015年8月に監督を辞任することになった。

「ラツィオ監督」時代のビエルサ

マルセイユ辞任から約一年。2016年7月にラツィオ監督就任が発表されたが、前述のとおり、ラツィオ監督時代があったとは言い難く、就任2日で辞任することになった。ビエルサ側は、監督就任の交渉時に、昨シーズンから18名の選手が去ったことを踏まえ7名の補強が必要であること、7月5日までに4名の合流が不可欠であることなどを伝えていたが、実現されなかったためと主張している。

リール監督時代のビエルサ

ラツィオ騒動からさらに1年後、2017年、フランスリーグの中堅チームであるリールの監督に就任した。ここでは、ほとんど成果を上げることができず、前半戦が終わるころには、18位に沈み、さらに11月に無断でチリに渡ったことをクラブが問題視。就任半年もたずに解任となった。

リーズ・ユナイテッドの監督就任

2018年からイングランドのリーズ・ユナイテッドの監督となるが、リーズの監督就任に関してもビエルサらしい逸話がある。リーズは元々古豪として、インクランドではよく知られた存在で過去イングランドの一部リーグでの優勝経験やチャンピオンズリーグで準決勝、ヨーロピアンカップで決勝に進出するなどの実績があるが、経営破綻をきっかけにプレミアリーグからの降格処分が下り、21世紀のほとんどをチャンピオンシップ(イングランド2部)で過ごすことになった。

そういったリーズがいまだ2部リーグにおり、しかも前のシーズンが13位で終わった状況で、次期監督としてビエルサに監督就任の依頼をすることになり、リーズのフットボールダイレクターがブエノスアイレスのビエルサの自宅を訪問した。実際に彼がビエルサの自宅を訪れると、すでに昨シーズンのリーズの試合、5試合分のビデオを見終わっていたという。

フットボールダイレクターがクラブ代表を引き連れて再訪した時には、リーズやチャンピオンシップのほとんどすべての知識を持っていたという。実はこの時ビエルサには、ウェストハムやスウォンジーからも打診があり、ビエルサ自身もイングランドでの監督業に強い興味があったようで、実際にイングランドに視察にいこうとしていたらしい。結果リーズを選ぶことになるが、ダイレクターや代表、クラブオーナーから必要な支援に関して、直接的に、かつ明確な約束があったことからだといわれている。個々の人間関係やお互いの信頼関係を重視するのがビエルサのポリシーであった。

その後、前述したスパイゲート事件などで、イングランドでもその名を広く知られるようになっていくが、リーズにおいてもビエルサのスタイルは不変で、献身性に裏付けられた豊富な運動量と攻撃的スタイルでリーズを変革していくことになる。

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ビエルサ自身のクラブへの献身性も深いものがあり、住まいとしてクラブが当初用意していた高級ホテルでなく、練習場の近くに住むことに決めたり、ブエノスアイレスで面談していた時には、すでに練習場の図面を入手して、改築の進言も行ったらしく、選手たちがリラックスするためのベッドや薪ストーブがあるリラックスエリアまで用意させたのだという。

戦術的には運動量をベースにした代名詞の3-3-1-3フォーメーションをベースに、相手が1トップの時は、デフォルトを4-1-4-1にして試合途中で巧み3-3-1-3に切り替えるなどした戦術を植え付けていく。

結果就任1年目は、3位となり、プレミアリーグ自動昇格を逃し、前述のように昇格を争うプレイオフでも敗れて昇格には至らなかった。しかしその前のシーズンが13位であったこと、ギリギリまで昇格争いを続けたことを考えると劇的な改善を実現したといえる。 次の2019-20年シーズンにチャンピンシップ優勝を果たし、プレミアリーグへの自動昇格を実現した。そのプレリアリーグでも、スタイルを変えず、リバプールの開幕戦で敗れはしたものの、愛弟子のペップ率いるマンチェスター・シティと引き分けるなど、今シーズン期待を持たせるチームの一つとして活躍している。

ビエルサの戦術

信奉したアヤックススタイル

ビエルサは、サッカーに革命を起こしたリヌス・ミケルスのアヤックスとクライフのオランダ代表が表現したプレッシングやダイナミックな攻撃に信奉ともいえる強い影響を受け、それが彼のサッカーの基軸をなしている。これはビエルサが選手だったころに指導をうけたホルヘ・グリッファ監督の影響でもあった。グリッファはミケルスやクライフが活躍していたころに欧州でDFとして長く活躍していたが、その後、ビエルサが選手として所属していたアルゼンチンのニューウェルスで行く部門の指導者になって、ビエルサに強い影響を与えることになる。

ビエルサのフォーメーション

戦術マニアで、膨大な数の試合分析をしてきたビエルサによると、サッカーのフォーメーションは29通りなのだという。その中で彼が選んだフォーメーションは、繰り返し述べてきたようにアヤックスの3-4-3から派生した3-3-1-3である。リーズでは少しアレンジがされており、キックオフ時、守備時には4-1-4-1が基本となる。FWはパトリック・バンフォード、MFの4人はエルデル・コスタ、ジャック・ハリソン、パブロ・エルナンデス、ラフィーニャ、ロドリゴ、マテウシュ・クリヒなどが使われ、アンカーはカルビン・フィリップス、DFはルーク・アイリング、スチュアート・ダラス、ロビン・コッホ、リアム・クーパー等が担う。ポゼッション時には、サイドバックのダラス、アイリングの2枚が前にでて、アンカーのフィリップスがCBに降りてきて、中盤2枚が縦関係になって、3-3-1-3を形成する。

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ビエルサのトレーニング

ビエルサのトレーニングはとにかくハードワークが特徴で、いかに若い選手を肉体的、精神的に鍛えていくのかが、キャリアを通じての彼のテーマでもある。実際リーズでは「マーダーボール」というトレーニングがあり、11対11で、スローインやファールなどで試合を一切止めずプレイを続けるような激しいトレーニングが行われている。ビエルサの教えを受けた数多くの選手がその激しさを語っている。

ニューウェルズでポチェティーノと同じ時期にビエルサの教えをうけたリカルド・ルナリは、子供のころにビエルサにスカウトされた1人であるが、ビエルサの激しいトレーニングについてこう語っている。「元々楽しいからやっていた僕らにとって、それはとても大きな変化だったんだ。元々、トレーニングも1時間半ぐらいでやっていたけど、ビエルサの場合、時間も倍になって、求められる集中力や肉体的な負荷もいままでと全く違っていたよ。」

ニューウェルズの後に指揮をとったメキシコのクラブでは、当時彼の下でプレイしたパベル・パルド曰く、「ビエルサは若い選手が苦痛の限界を超えようとしているのをみて、喜んでたよ」、「様々なトレーニングをするんだけど、あるトレーニングが終わった後、僕らが息も絶え絶えでフィールドの真ん中にあつまっているのをみて、とても嬉しそうだったよ」とその激しさが良くうかがえる証言をしている。

ビエルサの練習メニューは、試合で起こる状況を細分化していて、それを具体的なトレーニングに落とし込み、それを何度も繰り返していくのだという。このやり方を導入し始めた当初は批判もあったようだが、試合でもビエルサが設定した練習と同じ状況が生まれることがわかり、選手の中でもその有効性を実感するものが増えていった。

30年近くのキャリアの中で培われたビエルサのメソッドは、多くの選手を一段上のレベルに押し上げることに貢献してきた。直近でいえばリーズの躍進が最たるものだろう。リーズの主力たるケビン・フィリップは、プレミアでの経験がない中で、今年イングランド代表デビューを飾るまでになった。

ビエルサのマネージメントの恩恵を受けた選手の人に、ビエルサがアスレティック・ビルバオの監督をしていた時のストライカーであったアリツ・アドゥリスがいる。彼は典型的な遅咲きの選手で、生涯ゴール158点のうち、104点を30歳を超えてから上げている。その彼いわく、「間違いなく彼がいた年に大きく成長できたんだ。彼の高いレベルの要求が1段階上の選手に成長させてくれんだよ」

「彼はとても高いレベルのパフォーマンスをチームにも彼自身にも要求するんだ。だから、つねに注意深くなければいけないんだ。すべてのトレーニングセッションのすべての瞬間が大事で、すべてのファーストタッチ、すべてのシュート、そこで起こるすべてのものが厳しくチェックされるんだ。だから、トレーニング中、いつも意識を高く持つことが求められるんだよ。」

「彼のコーチングスタイルは、いつもボールをつかったものなので、選手は自信をもってプレイができるし、ボール扱いも成長していくんだ。彼の詳細なものの見方や試合中の細かい瞬間を分析したり、それを振り返ったりする手法は、選手をすごく成長させてくれるんだ」

ビエルサの守備思想

ビエルサの守備はゾーンディフェンスが主流の現代では珍しいマンツーマンをベースしたものである。時代遅れにもみえるスタイルではあるが、ゾーンディフェンスのエッセンスも加えながら、ビエルサらしい洗練された形で展開されている。プレミア復帰初戦のリバプール戦でその一旦が垣間見られた。リーズの基本はマンツーマンとなるため、ほぼそれぞれのポジションでマッチアップする相手をマークすることになる。その時CBだけゾーン的な守り方で、コッホとストライクがマークを受け渡しながらフィルミーノに対応する。その他、サラーやマネなどリバプールのWGに対し、SBとCBのマークの受け渡しなどが行われている。元々厳密なマンツーマンがベースであったビエルサであったが、ヨーロッパでの監督経験をへて、その形も進化してきている。

ビエルサラインとは

膨大なデータ分析をおこなってきたビエルサは、ビエルサラインという左右のゴールポストとそれぞれのペナルティエリアの角を結んだラインを提唱している。いわゆるxG(ゴール期待値)に近い考え方だが、このビエルサラインの内側で、全体のゴールの85%が決まるという。

そのため、ボールを持った選手がこの外側にいる場合は、内側にいる選手にパスをするか、内側にドリブルしてシュートを撃つことがチームの約束事となっている。つまり、いかにビエルサラインにボールを運ぶのかが、ビエルサの戦術やトレーニングの出発点になっている。

そうすると、攻撃にも守備にも、一貫した約束事をもつことができ、攻撃側では先ほど述べたように、ビエルサラインの外側でシュートチャンスになったらパスやドリブルに切り替えるというチームの共通認識を持つことができ、相手チームが捕まえにくい動きをすることができる。また守りでも、仮にペナルティエリアに対戦相手が侵入したとしても、ビエルサラインの外側でピンチになっても、不用意なアクションでPKを与えるようなことを防ぐことができる。

日本ともかかわりがあったビエルサ。日本代表候補に。

多数のメディアでも報じられていたが、ビルバオの監督になった際、ビエルサは2010年のワールドカップ後、岡田武史が退任した後の日本代表監督の有力候補であった。その時は、交渉中に、先にザッケローニと条件面で合意に達したため、ビエルサの日本代表監督就任は実現しなかった。なお、交渉の進め方に問題があり、日本サッカー協会側はビエルサを怒らせたようで、アギーレが辞任した後に再度交渉するも門前払いとなったようだ。

狂人の光と影

他と比較すれば異常なまでの厳しいトレーニングには負の側面もある。

ビエルサは、短期的な改善や成功という点では、実績を重ねてきている。しかしその一方で、選手に激しい消耗を強いるその手法は、タイトルをあらそう局面になったときに、選手が燃え尽きてしまうことが多い。その結果、1つのクラブに長くいることがなく辞任してしまうパターンを繰り返している。

アスレティック・ビルバオの最初のシーズン。ビエルサのチームは、ヨーロッパリーグとコパ・デル・レイのファイナルに進出したが、それぞれ3-0で、アトレティコ・マドリードと彼を師と仰ぐペップ・グアルディオラ率いるバルセロナに敗れて終わっている。マルセイユにいた2014-15シーズンの時は、クリスマスの時は、リーグトップであったが、その後調子を落とし4位に終わっている。

マルセイユでプレイしていたロッド・ファンニは、「僕らは消耗していたんだ。毎日同じことを繰り返すのは、精神的にとても厳しかったんだ。まるで工場のようで、そこにいって、同じこと繰り返し、繰り返し、繰り返しして、家に帰る、そんな感じなので、気持ちを強くもたないといけないんだよ」と語る。

「毎日がそうなんだ。1年間毎日だよ。信じてほしいよ、本当に簡単じゃないんだ」

ファンニによれば、ビエルサには、le professeur  "先生"というニックネームがつけられていた。それは彼のフットボールへの深い知識を意味していたと同時に、選手との距離を置く彼のヒューマンマネージメントに由来するらしい。

「彼とあいさつする人はあまりいないんだ。僕も生涯で彼とあいさつしたのは2回だけだよ。それを聞いてみんなショックを受けて、彼のことをモンスターのように感じるかもだけど、決してそんなことないよ。ただそれが彼のやり方ってだけだと思うよ」

ビエルサがルナリを獲得した時、ルナリにはクラブが100万ドルもかけて獲得した価値はないと話したという。アドゥリスも同様なことを言われたらしく、アドゥリスの獲得はビエルサが望んだことでなくクラブの判断だったといったらしい。

パルドは、ビエルサの選手に対する無関心が、彼のトロフィーの少なさに影響していると語る。「マネージャーに愛情を示してほしいと思う選手もいるんだよ。」

「個人的な意見だけど、クロップもグアルディオラもジダンも選手に対して、ビエルサよりはフレンドリーだと思うよ。マルセロ・ビエルサという人は、選手にシステムのことを理解させて、選手にツールを提供してくれるけど、人対人として向き合った時、もう少し近い関係性が必要なんだよ。彼は選手を機械だと思っているけど、僕らは人間なんだ」

ルナリも本音を語っている。彼は、ビエルサがチリ代表の監督をしていた時、アシスタントを務めていたが、もう彼と働きたくはないという。

「僕には彼の横で働くのに求められる強さは持ってないんだ。サッカーに対して情熱は持っているけど、1日中24時間サッカーのことを考えたりしない。彼と横で働くには、特別な献身性が必要になると思うよ。」

「彼のサッカーをすごいと認めているし、見続けたいと思うけど、それは外部の人間としてがいいよ。」

結果、マルセロ・ビエルサは2日で終わったラツィオや1年も持たなかったリールなど"狂人"らしい極端な例も含め、クラブレベルでは3年以上同じクラブで指揮をとったことがない。

現在のところリーズの中では、ビエルサの負の部分は見えてこない。就任初年度に昇格を逃したものの、次の年、コロナによる中断にも集中を途切れさせず、自力でのプレミアリーグ紹介を成し遂げた。

ビエルサも過去に学び、成長しているのだろうか?